なぜ、オイラは走るのか、、、

radical-do2006-05-02

最近は、出勤前、朝5時に起きて近くの多摩湖を走ることにしている。走行距離25キロ。自分でもこんなに自転車(MTB)にハマルとは思ってなかった。
でも、長い距離走っていると(長いといってもオレが走る距離はあんまりたいしたことないけど、、、)、なぜこんなに走るのだろうと思うことがある。
そもそも自転車に乗り始めたきっかけはダイエットだった。しかし、今では、ダイエットという目標以上に自転車が好きになってしまった。当初は脂肪を減らすという明確な目標があって走っていたが、自転車で走ること自体が好きになっていくと、その目標はぼやけてしまった。人に「なぜ走るの?」と聞かれて、登山家みたく「そこに山があるから」みたいに、「そこに道があるから」とか「自転車があるから」なんていうとカッコイイ(?)けど、そんなんじゃない。なぜ苦しい思い(たまに)までして走るのか。
とりあえずわかったことは、目標を持って走るのではなく、走ってしまってから、ある達成感を味わって、「ああ、オレはこの達成感を得るために走ったのだなあ」、なんて、走ってしまった自分を第三者みたく客観的に見てから、そこに走る意味や目標をみつけているということだ。

では、話は飛躍して、走ることが人生だったらどうか。
人生の終わりは「死」だから、とりあえず生きて、そして死んでしまってから、人生の意味や目標を認識しても意味がない。宗教家は別かもしれないけど、、、。じゃあ、人は何のために生きているのか?生きている間に細々とした、その時々の意味や目標はあっても、人生という長いスパンで見たときに「生きる」ということの意味や目標を見出すのはとても難しい。
ということは、つまり、人生そのものに意味や目標を求めることには無理があるのではないか。ひいては人生に意味や目標などないということだ。確かに人間は人生に意味や目標を見つけたがる動物だが、そんなのは人間特有の錯覚や幻想みたいなものだな。
つまり、まとめれば、人は「生きている限り、生きなければならない」。そのためにはその都度、生きている自分を生きていると納得させるための意味や目標を創り出さなきゃならないという本能的な感覚を持たざるを得ない動物だということだ。
なんかこんがらがってきたな〜
結局、人の生きる意欲を支えているものは何か?そこに普遍的な法則はあるのだろうか?